就職後、初めてのロング連休ですが、すべき仕事も投げ出して、漫画漬けの毎日です。
そのうちの一作品は、DVを受ける毎日を仕方ないと受け入れていた女性が、自分は暴力を受けるために生きているのではないと自覚して歩み方を変えることができたという漫画を読みました。(ネタバレになるのかな)
物語やそれぞれのシーンで人の痛みを容赦なく日の下に晒すし、醜いと感じさせるギリギリ手前のエロい衝動が描かれているのだけど、建前ではない生き方をするために欠かせないものを丁寧に描いていました。
作中でこんなセリフがあります。
「ああいう自信のない人間はね
自分の価値が他人によって存在しているのよ」
これは無茶苦茶痛いことを言われた気がしました。と同時に、何度も忘れては痛みの記憶だけは時に復活していた平成の失恋話が成仏できた気がしました。ああ、あんなに大切にされてると思ったのに猫を捨てるにしたってもう少しまよってくれてもいい位、簡単にポイされたよね、な別れになったのは結局、私が私の自己肯定感をあの人に預けていたところにも大きな理由があったのね。と。DVはなかったけど思い返せばDVのラインすれすれのお付き合いだったのに、なんで長く心を囚われてしまっていたのだろうとずっと引っかかっていました。
あれは大切にされてたのではなくて支配されてただけだったなら、あの捨てられかたもさもありなんでした。たぶん、それは大学時代までに乗り越えておいた方がよかった生き方、在り方の問題もはらんでいたのでしょう。乗り越えるには私にはあまりにも出会いが少なすぎました。そう、こういう漫画にすら出会わなかったのはいろいろと自分でバリアを作って、そのバリアで必死に自分を守れると決め込んできたのかもしれません。
残念だけどあれは大好きだったのではなくて、私は求められているという勘違いの生んだ大きな幻で自分をごまかせられた時代だっただけだったようです。
改めて、言えます。平成、さよなら!
ようこそ令和!