千猫さん、こんな堅い本も読むのぉ?と、敬遠しないでぇ(>_<)。
本についているブックカバーから大学生のころに買ったと思われる本。
いつも手元に会ったわりに読んだ記憶は薄くて。でも、改めて読むと結構、内容を忘れているその本は若かった私に影響してる気もして、また分かってなかった気もして。
教えて言われた。
近ごろ仏道を学ぶ人は多くは、まず理解の早いのを分かってもらおうとして、気の利いた受け答えをしようとしているうちに、肝心の聞くべきことを聞きのがしてしまう。結局のところ道心というものが無く自分というものを捨てていないからである。
法を聞くときはただ是非ともまず自分というものを念頭に置かず、相手の言うことをよく聞いてそれから静かに考えて、もし欠点や疑問があったならば次の機会にでも欠点を上げて論議し、納得がいったらその上で帰依したらよい。その場でよく分かった様子を見せようとするのは、肝心の法の話をよくも聞いていないのである。
と言う項目は、「分かってなかったなあ」と言う所。今、お客様仕事をしてて、とにかく「聞くのが仕事」であるところは仏道を学ぶ訳でなくても、立場的には似てるなあと。
「正法眼蔵随聞記」(筑摩叢書5:野上弥穂子訳)と言う道元の「正法眼蔵」の世界観を道元に親しい懐奘(えじょう、うちのマックくん賢い!一発で変換したわ(^0^))が今で言う口述筆記したものの現代語訳。
「生きる」「学ぶ」「教える」「悟る」と言う日常にある当たり前なことにどう向き合うかを仏法を中心としながら語られてて、そこには「出来ない」「分からない」人間への深い愛情と、同時に「出来るはずなのに!」と答えを少し焦る必死で真面目すぎる道元と言う人の立ち居振る舞いまでが見えるようでもあって、教える、という事の難しさが伝わります。
どうすれば「やろう!と言う意志」を弟子達の中に創造できるのか、を、鎌倉時代に必死に考え、そして人間観察を続けた人がいる。のは、すごいね。と言うか800年の間、人間はそこのところでは進歩してない、と言うべきなのか。
すべての人には仏生が宿る。その仏生の宿る貴重な存在だから敬って付き合うべきであるという言葉に、改めて、どうしたらそういうつきあい方が出来るのか、思わず考えたけどすぐには答えにはならないみたい。